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#10 シズちゃんのガラス

いつも利用している食品スーパー、そこにに併設されたクリーニング店に出していた衣服を受け取ったシズは、じりじりと強い日差しの照り付ける路地を歩いていた。じっとしていると、額にじっとりと汗が浮かんでくる。時折タオルで顔を丁寧に拭って、こまめに汗を拭き取ることを欠かさない。シズは少し汗をかきやすいタイプであったから、こうしたケアには人一倍気を配っていた。

シズの歩く路地の左右には、ぽつぽつと個人商店が立ち並んでいる。だが、そこに活気があるとは言い難い。行き交う人もまばらで、止むこと無くミンミンと響き渡る蝉の声を除いては、辺りはしんと静まり返っていた。幾許かの心細さを抱きながら、シズは家路を急ぐ。帰った後はジムにいるトレーナーたちに飲み物とお菓子を配らなければ。確かお菓子の買い置きは、あと二回ほど配ればすべて無くなってしまうくらいしか残っていなかったはずだ――。

左手にクリーニングバッグを提げたシズの思考が停止したのは、前方から自分の進行方向とは逆に向かって進んでくる人影が視界に入ってきた瞬間だった。彼女は思わず目を見開いた。自分に相対する形になった少女は、両耳にイヤホンを装着し、スマートフォンをしきりに弄りながら歩いている。相手の視線はスマートフォンに釘付けになっていて、シズの存在にはまだ気が付いていなかった。

向かって来たのは、サダコだった。

反射的に身を固くする。暑気や熱気によるものとは性質を異にする冷たい汗が、額や腋にじわりと浮かんでくるのを感じた。緊張状態に入ったシズが、サダコの姿を凝視しながら、彼女に徐々に近付いていく形で歩いていく。できることならこのまま、気付かれること無く通り過ぎたい。シズがそう願うのは当然だった。相手がスマートフォンを弄り続けていてくれれば、あるいは事がうまく運ぶかも知れない。

しかし。

「…………」

シズは見てしまった。サダコがスマートフォンから視線を外し、ふっと顔を上げる瞬間を。

「……っ」

無意識のうちに、声にならない声が喉の奥より絞り出される。目が合ったと認識したのは一瞬の事だ。サダコは顔を上げた途端、その先にシズの姿があることを認め、フォーカスを彼女に合わせていた。シズは蛇の一睨みを受けた蛙の如き様相で、サダコから目を離すことができなくなった。

動悸が高鳴り、平静ではいられない。サダコとの距離は着々と詰まっていく。あと数秒で交差することになるだろう。一体どんな顔をしていればいいのか。恐怖に縛り上げられ、音もなく突き付けられた切っ先を前にして震えている思考は何の役にも立たず、距離が詰まってゆく有様を無策のまま見つめ、時間を空費するばかりだった。

殺される。殺されるのではないか。普段なら大げさだと一蹴できるような考えが、シズの心を鷲掴みにして離さない。恐怖に支配されるとはまさしくこのことだった。今にも口から心臓が飛び出しそうだ。自然と歩幅が小さくなり、歩行のリズムも乱れていく。対するサダコはシズが心中穏やかでないことを知ってか知らずか、平時と変わらぬ調子で悠然と歩き続けている。対照的な構図が展開されていた。

九・八・七。一歩歩くごとにカウントが減っていく。サダコは視線を外さない。六・五・四。全身が緊張状態のまま、シズはサダコの横手へ向かっていく。お互いがお互いの存在を間違いなく認識している、勘違いなどではない。三・二・一。シズが目を見開き、サダコの姿を瞳一杯に映し出す。

そして――。

「…………」

「…………」

――零。

サダコの瞳を覗き込んだシズは、思わず竦み上がった。交錯した相手の瞳には、底無しの憎悪が滾っていた。斯様な瞳に真っ直ぐに射抜かれたシズの心中に、怯懦の感情が奔流の如く押し寄せてくる。あっと言う間に許容限度を超えて、瞬く間にすべてを押し流していく。サダコはそんなシズを、刺すような強い目で睨み付けていた。

言葉一つ交わさぬまま、シズとサダコが交差し、そのまま通り過ぎていく。サダコはシズに一瞥をくれただけで、何も口にせず、また何もアクションを起こさなかった。シズの方はそもそもサダコに何か働き掛けようという気持ち自体が毛頭なく、何も起こらぬまま通過することだけを願っていたから、同じく何も動きを起こさなかった。サダコはシズが横を通り過ぎていくまでずっと見つめ続けていたが、具体的に何か声を掛けるといったことはしなかった。

シズには分かっていた。サダコが何も言わなかったのは、言わずともすべての感情を伝えられる、言葉など使う必要は無い、むしろ邪魔だと考えていたからに他ならない、と。わざわざ口頭で説明しなくとも、お前なら自分の気持ちが分かるだろう、いや、意図した通りに理解しろ――と。不可視の圧力を、シズはひしひしと感じ取っていた。

サダコとすれ違って十歩ほど歩いたのち、シズが足を止める。ほんの一瞬躊躇したが、それでも自分の気持ちには抗えなかった。くるりと後ろへ振り返り、サダコの後ろ姿を目に映す。

長い黒髪を揺らしながら、サダコは前を向いて歩いている。背中に嘗ての面影を見出そうとしても、伸びた髪に阻まれ記憶が蘇らない。記憶の中にいる彼女と、今この場にいる彼女の姿に大きな齟齬が生じて、姿が一致してくれない。

(変わったんだ、変わっちゃったんだ)

変化・変質・変貌。サダコは変化し、それによって変質し、そして変貌した。もう、サダコはシズの知っているサダコではない。シズは、それを今一度思い知ることとなった。

クリーニングバッグを持つ左手に、意識せぬまま強い力が篭もる。手のひらに跡が付くことも構わず、シズは左の拳を固く握り締めた。

居た堪れない気持ちが止め処なく溢れてきて、シズは再び踵を返すと、逃げるようにその場から立ち去った。

数刻前までシズが側にいた電柱の足元に、粉々に砕けた瓶が落ちていた。

 

 

喉がカラカラに渇いていた。シズは帰路の途中にある、噴水が設置された公園へ足を踏み入れた。真っ直ぐに自動販売機を目指すと、母から預かっている財布とは別の小銭入れを取り出し、必要な分だけ硬貨を投入した。どれにしようかと思案して、最下段にあった缶入りの清涼飲料水「サイコソーダ」に目を留める。これにしよう。グイとボタンを強く押下して商品を選ぶと、ガコン、という音と共にサイコソーダが排出された。

取り出し口から缶を取り上げ、すぐ近くにあったベンチに腰掛ける。横にクリーニングバッグを座らせると、シズは大きな大きなため息をつき、額に浮かんでいた汗を拭った。全身の緊張が解け、がくりと脱力する。猛烈な虚脱感がシズを包み込んだ。どれほどの緊張状態に置かれていたのか、シズはこの段階になってようやく認識した。大変なものだったとしか言いようが無かった。いくらか間を空けてから、プルタブに人差し指を引っ掛けて缶を開け、口元へ運ぶ。砂漠のように渇ききった喉を、シュワシュワと細かな泡を立たせる冷たい液体がするりと通り抜けていき、シズはひとまず生気を取り戻した。

中身が半分ほど減った缶を隣に置いてから、シズは思考を巡らせた。考えていたのはつい先ほどのこと。路地ですれ違ったクラスメート・サダコのことだった。

シズは、今しがたサダコが見せていた瞳の色を鮮明に思い出すことができた。明らかな敵意と憎悪。誰がどんな見方をしても、シズに敵対的な感情を抱いているという結論を導き出せることだろう。サダコは自分を敵視している。ちょっとやそっとじゃ覆せない、がっしりと根を張った敵愾心。シズはそれを、文字通り目の当たりにした。

けれど――と、シズが思考を混ぜ返す。確かにサダコの目は、自分を射抜かんばかりに鋭かった。そこに疑いの余地は無い。だが、サダコの瞳に宿っていたのは、それだけではなかった。

一抹の寂しさ、あるいは哀しさとでも表現すればいいのだろうか。すぐ近くにいるシズではなく、もっと遠くの何か、今はもう手が届かなくなってしまった何かを見つめる悲愴な眼差し。大切にしていたものを喪失したという嘆きが、サダコの瞳からありありと感じ取れた。だからシズは尚更、サダコの視線に痛みを覚えた。憤怒や嫉妬といった通り一遍の言葉ではカテゴライズできず、敵対的な瞳をさせる感情の根源は何なのかと思考を巡らせ考えてしまう。

だからシズは、余計に強い痛みを感じることになった。

シズは今一度、サダコの人柄について、自分の認識を整理し始めた。中学に上がった直後から、皆を引っ張る仕切り役として活躍していた。一年生の時も同じクラスだったので、その時の様子はきちんと記憶に留まっている。場の空気を作り出すのが得意で立ち回りが上手く、サダコに向かって面と向かってモノを言う同級生は見た試しが無かった。何事も中心にいないと気が済まないタイプだったために、彼女の周囲を人が取り巻いていないことは絶えて無かった。

シズに刺々しい目を向けるのは、自分が中心にいられないから。それは一因としてあったろうし、チエのようにそれが主因と見ている者も少なからずいた。

(だけど、それだけが理由じゃない)

自分を中心に置くという形では、ある意味誰に対しても分け隔て無く接していたサダコだったが、そこには一つだけ例外があった。サダコ本人が言ったわけではないが、彼女の近くにいる者は誰しもが感じ取り、暗黙の了解としてコンセンサスが得られていることだ。

それは、「小学校の頃にサダコを知っていた人間とは関わりを持たない」というものだった。

同じ小学校出身の者でも、かつてのサダコのことを知らなければ普通に接した。だがそうではなく、サダコが小学生だった頃のことを知っている人間とは徹底して距離を置いた。目に見えないプレッシャーを掛けて、自分の形成したグループから爪弾きにしてしまうのが通例だった。ルミがサダコの目を畏怖していたのも、恐らくそれが理由だろう。

シズは、それに当てはまっていた。シズとサダコは同じ小学校の出身であるに留まらず、同じクラスに振り分けられていた時期もあった。そうであったから、サダコはシズと距離を置き、深く関わることが無いようにしていた。シズもまた同じで、サダコとはあまり接点を持とうとしなかった。今のサダコの気質がシズと合わない、という理由ももちろんあったが、実のところそれだけに留まるものではなかった。

(あの時……わたしは、どうすればよかったんだろう)

自問する、されど答えは返ってこない。今答えが分かることはないし、仮に過去のどこかの瞬間で答えが分かっていたなら、その通りに行動していただろう。この状況が出来上がっているということは、現時点まで答えが分からなかったか、答えが分かっても行動に移せなかったかのどちらかであり、それらは同じ結果を齎すという意味では些細な違いに過ぎなかった。

過去は変えられない。過去は「過ぎ去った」ものであり、現在から変化を及ぼすことはできない。変えられない、既に確定した事項であるから「過去」なのである。

奥底に隠していた旧い記憶が、不意にフラッシュバックする。

『あんただって、あいつと同じ穴の狢だ! 言い逃れしようなんて、考えてんじゃねえよ!』

『割れたガラスは粉々になってなあ、もう一度一枚になんかならねえんだよ! なれねえんだよ!』

『もう、二度と話し掛けるな』

『もう二度と、あたしに構うな!』

過去に飲み込まれ掛けていた意識が引き戻され、シズはハッと目を見開く。

変わっていない。あの時から何も変わっていない。時計の針は、一秒たりとも前へ進んでいない。歯車を回すことをやめてしまった時計は、永遠に同じ時空を彷徨し続けるのだ。

割れたガラス。あの時浴びせられた言葉を思い出す。粉々になったガラスは、二度と元の形には戻らない。それまで結束して一つの集合をなしていても、一度壊れてしまえば原形を留めなくなる。なるほど、適切な比喩だ。本当に適切な比喩だと、シズは嘆息した。

そう、確かに「一枚」だった頃があった。何もかもすべてが幸せ、というわけでは決してなかったけれど、皆が一心同体で、同じ方向に向かって歩いているという感触があった。夢や希望、未来を共有していた気がする。分かち合うことができていたはずだった。自分たちが一枚になっている実感はあった。一枚のまま続いていくと思っていた。

(だけど、それはガラスでしかなかった)

たった一つの衝撃で、一枚だったガラスは粉々に砕け散ってしまった。バラバラに砕けたガラスのヴィジョンが脳裏に浮かび、飛び散った破片がシズの記憶を容赦なく切りつけていく。

あれは、わたしたちだ。わたしたち、そのものだ。

シズの懊悩は止むことなく、その後も暫しの間続いた。

 

※この物語はフィクションです。実在の人物・団体名・事件とは、一切関係ありません。

※でも、あなたがこの物語を読んで心に感じたもの、残ったものがあれば、それは紛れも無い、ノンフィクションなものです。